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幻の愛宕山鉄道展ーブログ上ー/写真の追加

「幻の愛宕山鉄道切符・はがき、パンフレット」展

ケーブルカーの電気図面を追加。長岡京市在住のH氏が提供。末尾の「続きを読む」をクリック。

 京都の北西、嵐山、清滝方面に、愛宕山鉄道があったことをご存知ですか。京都生まれ、育ちの66歳の私ですが知りませんでした。たまたま図書館で愛宕山鉄道の本を読み、そういえば古い記憶の中に、愛宕山にスキー場があったことを誰かに聞いたことがあります。
 店のお客様の鉄道フアンから聞いて、資料を集め出したらいつの間にか10年を経過し、どうにか皆さまに報告できる資料が集まりました。
 以前に、店で展観しましたが、お客様からの要望で、今回ブログ上で展観します。まだまだ、足りない資料がありますがお楽しみください。
2014年(平成26年)11月11日
古民具やまもと 店主

1. 愛宕山鉄道の歴史

 愛宕山鉄道の敷設は、大正中頃愛宕山の参詣、登山のために計画され、あわせて山頂にホテル、遊園地。スキー場なども計画された。
 鉄道、ケーブルカーの工事は、昭和3年(1928)6月に開始され、愛宕山鉄道開業は翌年4月に、同年7月にケーブルカーの開業、昭和5年(1930)7月には、愛宕山ホテル、遊園地が開業された。
 ところが、太平洋戦争の末期、戦局の悪化により昭和19年に愛宕山鉄道、ケーブルカー、他の施設も撤去、廃止された。戦後の再開業の計画もあったが、資金難から開業できなかった。

 2、車両等
  
 今の京福電気鉄道(嵐電)の嵐山駅の1番ホームの北側に愛宕山鉄道のホームがあり、駅は嵐山、釈迦堂、鳥居本、清滝であり、線路は単線、総延長は3.39q、トンネルは清滝トンネルの1か所。
 車両は、北大阪電気鉄道が使用していた「1型」車両、長さは約13m、新京阪鉄道(現在の阪急電車)から当初は6車両を借り、後に購入した。
 鋼索線は、延長約2q、高低差は約638m。車両は東洋車両製造、車両は約13m、定員84人、昭和18年廃止の後は、行方は不明だが、宮津のケーブルカーへ行ったとも言われている。
 北大阪電気鉄道1型の雄姿は、2010年6月30日(株)阪急コミュニケーションズ発行の「HANKYU MAROON WORLD阪急電車のすべて2010」の34Pで見ることができる。


嵐山駅の北側ホームの愛宕山鉄道,想像図



                   鳥居本付近の愛宕山鉄道想像図  
3、切符・はがき、パンフレットから

 開業当時の切符・はがき、パンフレットから、開業当時の様子を見る。


@ 「嵐山・清瀧愛宕山・高尾略図」京阪電車発行。開業時の昭和3年か4年
発行。
 ご相談所の欄に「新京阪」の名称が使われているので発行日が特定できる。
「新京阪」は阪急電車の前の社名で、大正14年から昭和5年まで「新京阪鉄
道株式会社」。「新京阪」は北大阪電気鉄道株式会社から大正14年に「新京阪鉄道株式会社」となった。路線は十三から千里山、京都線。(26・5p×19p)


@ の「嵐山・清瀧愛宕山・高尾略図」の裏面。



A 「愛宕山鉄道沿線案内図」愛宕山鉄道株式会社発行
鳥瞰図。西院大阪間の鉄道が新京阪と記載されている。ケーブルカー6月
 開通と記載されているので、昭和4年発行と判明する。

Aの裏面。料金表。
(26p×12・5p)




B「嵐山、嵯峨、御室、清滝、愛宕、嵐峡下り」の案内。鳥瞰図。愛宕山鉄道
発行。かなり詳細に描かれている。開業当初昭和3年か4年発行。
(28・5p×21p)

Bの裏面。



C「嵐山、嵯峨、御室、清滝、愛宕、嵐峡下り」の案内書。鳥瞰図。愛宕山鉄道株式会社発行。昭和6年から7年頃。開業当初の案内書から手直しされ、また裏面の運賃額が改定(値上がり)されている。
(19・5p×18・5p)

裏面



D「国民精神総動員京阪沿線案内その二、愛宕嵐山方面」の案内
書、京阪神急行電鉄株式会社発行、昭和18年発行と推定。昭和18年
阪神急行電鉄が京阪電気鉄道と合併し、京阪神急行電鉄株式会社が発足。
時節も太平洋戦争末期、その時節の中で観光案内が発行されていることは
不思議な感じ。印刷用紙、インクが粗悪になっている。(27p×19p)

裏面



E切符各種



F切符各種



G「愛宕山ケーブル起点清滝川駅」の絵はがき。発行所不明。昭和3年発行。


H「愛宕山ケーブル起点清滝川駅」の絵はがき。
発行所不明。写真は開業東寺のものを使用。昭和4年以降発行。清滝川付近も見える。



I「愛宕山ケーブルカー第二隧道に向ふ鋼索電車」の絵はがき。昭和4年以降発行か。昭和5年の1月2日の記念スタンプ印がある。発行所不明。



J「京都愛宕登山ケーブル」昭和4年以降か。宛名の印刷が他の絵はがきと
異なる。他の絵はがきと違うのか。



K「愛宕山ケーブルカー電車室内部」昭和4年以降か。愛宕山ではなく、愛宕と記述がある。



L「京都愛宕山登山ケーブル第一隧口下り鋼索電車」昭和4年以降か。


M「愛宕山ケーブル第二鉄橋進行中の鋼索電車」発行所不明。開業当初の絵はがき。


N「京都愛宕山登山ケーブルカー頂上」、開業当初の絵はがき。山頂
付近はまだ何も準備が出来ていない様子が分かる。



O「叡山と嵐山」京都電灯株式会社発行。愛宕山鉄道の開業時の昭和4年か5年の発行。四条大宮駅が記載されている。「新京阪」から京都電気鉄道株式会社になった昭和5年に四条大宮が開業された。
 昭和18年まで新京阪と呼ばれた。当時叡山線は、京都電灯株式会社鉄道部叡山電鉄課が担当していた。
 昭和18年になり国策により、京阪電気鉄道と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄株式会社となり、京都電灯株式会社鉄道部門も吸収された。

Pの裏面


※紅白の横線は、無断で資料が使われないようにしました。ご了承ください。
※12月12日Gの写真を入れ替え、Hのキャプションを修正。

中小路家「河合卯之助展」

 平成24年(2012)11月22日から25日まで向日市上植野の「中小路家」で古民具やまもとの企画で開催します。
ご来場をお待ちしています。
入場料は無料です。駐車場はありません。




 当日配布資料

作品展示数陶磁器5点、自筆はがき、「河合卯之助陶画集」原稿、その他
開催期間:平成24年11月22日(木) から 25日(日)まで
時間:午前10時から午後5時まで(最終日は午後4時まで)
場所:向日市上植野町「中小路家」
展示作品は、卯之助さんの陶画集が中心です。特に陶画集の推敲原稿の展示は本邦では初めてです。

河合卯之助氏陶歴
明治22年3月3日京都市陶工端豊の二男として誕生。
明治44年京都絵画専門学校卒業
大正5年自作木版集「伊羅保」出版
昭和3年向日窯築窯(現向日市寺戸町、現在は寺戸郵便局及び旧生協跡地)
昭和44年死去、80歳

 作陶は、京都の清水坂でされていましたが、寺戸町西野辺(当時向日町大字寺戸小字西野辺)に窯「向日窯」を築き作陶に入られました。清水坂に続き向日窯でも、赤絵、押葉陶器、天目、青磁と作陶されました。
 吉川英治、岡部伊都子、富本憲吉などとの交流も多く、当時の文化サロンでした。
 当時は、この乙訓の地で作品展も開かれましたが、今やこの乙訓で作品展などが開催されることもありません。このことは、非常に残念に思えます。
 このたび、卯之助の作品を所蔵されていた「山本重次郎氏」のご遺族山本匡利氏(現向日市在住)のご協力により開催できました。厚く御礼申し上げます。
 この展観を通じて乙訓在住の方々に、偉大な陶芸家の作品を郷土の誇りとしていただいたら幸いです。

会場:国登録有形文化財中小路家住宅(向日市上植野町下川原48電話075-921-2657)


企画:古民具やまもと(長岡京市長岡2丁目19−13)電話954-3103


当日配布資料

 ごあいさつ

      上記の写真は、昭和18年9月不二書房発行卯之助著「窯邊陶話」から

 この乙訓の地は、今から1200年前に日本の都「長岡京」が置かれていた歴史ある地である。
 歴史ある地に、卯之助は、昭和3年向日市寺戸町西野辺(当時向日町大字寺戸町小字西野辺)に「向日窯」を築き作陶した。京都市の清水坂の作風に続き、「向日窯」でも、赤絵、天目、青磁、「押葉文様」も引き継がれた。
 卯之助は1889年に京都市で生まれ、京都絵画専門学校を卒業、「白樺」の影響を受け、版画集、木彫、デザイン、俳句などの作品も生み、大正5年頃か
ら陶芸家を志した。
 作品は山野草を自由な筆使いで描いたのが特徴である。この作風にフアンが多い。
 陶芸活動はどの団体にも属さず、その作品は当時活躍していた河井寛次郎,浜田庄司、富本憲吉とは違った独自の境地で、栄達に関係なく制作を続けた。

 今回展示の陶画集の「原稿」を見て、卯之助の「下絵」(したえ)、「上絵(うわえ)の真骨頂を味わってください。
 卯之助は、陶器の制作だけでなく、俳句、俳画、デザインにも優れ、特に大正11年33歳の時、後に「陶画集」を発行する山本重次郎氏と約1カ月朝鮮に旅したが、そのとき、朝鮮。李朝、高麗の陶磁器を沢山買い、その結果朝鮮の陶磁器の影響が卯之助の作風に反映されるようになった。その旅行の陶器のスケッチも一部展示している。

 本展は、小展示であるが、充分に河合卯之助の息吹を感じていただけるものと思っている。特に版画の展示は各地で展観されているが、その原稿を展
示するのは初めてである。会場の制約もあり一部の展示となった。いつか機会があれば他の場所で全体が展示されると思う。

 末筆になりましたが、本展を展観するにあたり、ご出品いただいた山本匡利氏並びに「国登録有形文化財中小路家住宅」の中小路氏には多大なご協力を賜り厚く御礼申しあげます。
  
                          2012年11月
                    古民具やまもと代表山本榮二


  当日配布資料

河合卯之助陶歴

明治22年(1889)      3月3日 京都東山五条坂陶工端宝の長男として誕生
明治 44年(1911)     22歳京都絵画専門学校卒業
大正  4年(1915)     26歳清水新道に居住
大正  5年(1916) 27歳「伊羅保」(自刻版画集)出版
大正11年 (1922)     33歳朝鮮旅行(山本重次郎氏同行)
大正15年 (1926)     37歳「河合卯之助陶画集」発行
昭和 3年 (1928)     39歳当時の向日町に転居「向日窯」を築く
昭和 8年 (1933)     44歳「押葉陶器」で特許
昭和12年 (1937)     48歳パリ芸術・技術万博出品
昭和13年 (1938)     49歳ニューヨーク万博出品
昭和18年 (1943)     54歳9月「窯辺陶話」出版
昭和22年 (1947)     58歳「向日窯」を再建(戦争末期作陶中断)
昭和33年 (1958)     69歳陶歴50年を記念して、5月神戸白鶴
美術館にて「卯之助展」を開催。
              11月東京日本橋三越にて開催
昭和35年 (1960)     71歳随筆「あまどころ」出版
昭和41年 (1966)     77歳3月、喜寿展を東京三越にて開催
昭和44年 (1969)     80歳1月14日没、墓所妙心寺

展示作品

1.牡丹文様水差     2.蘭白磁向付    3.すみれ赤絵吸物椀

4.阿古陀振出      5.印句壺      6.柳赤絵壺

7.漆画盆        8.飴釉刻花壺    9.卯之助陶画集

10.卯之助陶画集原画   11.鶏龍山窯陶画巻  12.色絵ブローチ

13.ほたるふくろ銘々皿  14.赤絵印句壺    15.赤絵盃

16.奥梧桐象嵌扁壷    17.自筆はがき(古民具やまもと蔵)
   
18.「窯辺陶話」(古民具やまもと蔵)  19.「あまどころ」(古民具やまもと蔵)  

※1から16まで山本匡利氏蔵。上記は予定で変更することがあります。  



上記は中小路家

上記は展示の様子

※所蔵者の許可次第展示の一部を掲載します。

 中小路家ではとても素敵な、古民家喫茶室があり、軽食もあります。古民家の中でゆっくりと時を過ごすのもいいですね。

平成25年は「古民具やまもと」にて、「第2回河合卯之助展」を開催します。第2回は、「古民具やまもと」所蔵する自筆の手紙、掛け軸を中心にと思っています。お楽しみに。

※無事卯之助展が閉幕いたしました。大阪や滋賀県から、当店のブログを見て、多数卯之助ファンの方にご来場いただきました。
 今日も店のお客様数人の方から、小さい展示だが卯之助の陶器、デザインなど良く分かる構成でよかったとの評価の電話をいただきました。
 また店が所蔵する、卯之助の軸、俳画、手紙(卯之助が友人に出した手紙)など紙のものを店で展示したく思います。
 来春の連休と思っています。お楽しみください。
 ありがとうございました。
 
 
 

陶芸家河合卯之助展ご案内

陶芸家河合卯之助展

作品展示数陶磁器14点、自筆はがき、参考掛け軸3点その他。
開催期間:平成23年11月11日(金)12日(土)13日(日)並びに
     18日(金)19日(土) の5日間。
時間:午前10時から午後5時まで
場所:古民具やまもと(地図は、ホームページで)
河合卯之助氏陶歴
明治22年3月3日京都市陶工端豊の二男として誕生。
明治44年京都絵画専門学校卒業
大正5年自作木版集「伊羅保」出版
昭和3年向日窯築窯(現向日市寺戸町、現在は寺戸郵便局及び旧生協跡地)
昭和44年死去、80歳
作陶は、京都の清水坂でされていましたが、寺戸町西野辺(当時向日町大字寺戸町小字西野辺)に窯「向日窯」を築かれ、作陶に入られました。
吉川英治、岡部伊都子、清水卯之助、富本憲吉との交流も多く、居も当時の文化サロンだったようです。
清水坂に続き向日窯でも、赤絵、押葉陶器、天目、青磁と幅広い作品が作られたようです。
当時は、この乙訓の地で作品展も開かれましたが、今やこの乙訓で作品展などが開催されることもありません。このことは、非常に残念に思えます。
乙訓在住の方々に、偉大な陶芸家の作品を展観していただきたく思います。

展示の一部を紹介します。


            色絵絵皿径18p 共箱


            押葉盛皿径24cm 共箱


            赤絵茶碗6客揃径10p×H6cm 共箱   


            良寛詩蓋置径6cm×H5cm 共箱


            赤絵盃径5cm×3cm 共箱


                       古民具やまもと店主山本榮二

江戸のサイエンス(その1)

江戸のサイエンス(その1)

江戸時代は、鎖国が続き、科学・物理・医学等の知識が欧米に比べて非常に立ち遅れていたと感じる人が多いと思います。
 事実は、桃山時代に鉄砲が伝来し、急速に工業といいますか金属生産・加工技術が発展しました。
 また、織田信長が活躍した頃は、ポルトガルの宣教師が来日し、西洋の天文学、地理学、医学、測量学など新たな学問が流入しました。
 江戸時代になり、長崎の出島を通して新しいコペルニクスの地動説、ニュートンの物理学や医学(蘭学)、測量学、電気など多くの学問が入ってきました。
 江戸の数学、和算は欧米にも劣らない高度なものでした。
 明治になり欧米の科学が入ってきたのではなく、江戸時代にはすでに入っていて、その基礎があり明治の近代化が進んだのです。
 先人が苦労して製作した機器等を、一骨董屋の目から、「江戸のサイエンス」としてブログ上で展示したいと思います。(いずれも「古民具やまもと」蔵)
 

                 写1 中方儀
        中方儀は羅針盤と方位、高度角を測る望遠鏡と
        組み合わせたもの。
        用途は、川幅、山の高さ、土木工事などに使用。
        現在の測量では、トランシットと呼ばれている。
        当中方儀は江戸後期のもの。1770年頃。高さ32センチ

        

               写2 中方儀の目盛り板
          算用数字ではなく、干支の方位で刻む。



        写3 小方儀(しょうほうぎ。わんからしん、杖先羅針)
        伊能忠敬が日本の測量に使ったものの同型品。
        伊能忠敬の第1次測量は、寛政2年1800年奥州から。
        「古民具やまもと」の位置する乙訓の西国街道には
        第5次測量として来ている。文化8年から10年の
        こと。(1811年から1813年)
        伊能忠敬から小方儀を間宮林蔵に譲られたと聞く。
        間宮林蔵は文化5年(1808年)から文化6年樺太探検。
        間宮林蔵は、測量を伊能忠敬から学ぶ。
        120センチ約4尺の棒に「小方儀」を立て、測量を。       
        測量の様子は、当「小方儀」をフジテレビの伊能忠敬の
        番組に貸し出しましたので、当店にそのDVDあり。
        目盛り板は、干支の方位で刻まれている。
        江戸後期のもの。1750年頃。高さ20センチ

        

                写4 小方儀
        目盛り板は、干支の方位で刻むのではなく、算用数字で
        刻まれている。江戸後期。高さ20センチ



                写5 大方儀
        恒星の高度を計測し、緯度を計る。
        江戸後期、高さ11センチ横17センチ

       

         写6 懐中小方儀
         杖を挿す部分の真鍮が欠品、
         目盛り板は、干支。
         畑や農地を測量したのか。
         江戸時代。径7センチ

        

            写7 懐中日時計
           道中に使用
           江戸時代から明治初年
           径5.5センチ

         

            写8 北前船などの羅針盤
            江戸時代に北前船や航海に使用
          したもの。明治初年まで使用された。
           径10センチ


            写9 士官用望遠鏡
           艦上船用の望遠鏡。
           江戸幕末。外国製か和製かは不明。
           真鍮。長さ57.5センチ


 

            写10 遠眼鏡(とおめがね)
            日本に望遠鏡が渡来したのは、
            徳川家康が英国人から送られたのが
            最初といわれている。
            当望遠鏡は、外筒は紙と漆。
            分解したところ、連中は15ミリくらい
            で、手作り。これで見えたのかと思う。
            全長145センチ           


             写11 写10の共箱
             文政3年(1820年)の箱書き
            


※また、江戸のサイエンスをブログでと思っています。

                           古民具やまもと店主
古民具やまもとにリンクします。

             

西国街道、道中小物展 江戸の旅 「中小路家住宅」4/29更新

 2010年2月14日(日)向日市、長岡京市、大山崎町にて「おとくに大好きフェスタ」のイベントの一つとして、向日市寺戸公民館「おもしろ西国街道展」が開催されました。
 「おもしろ西国街道展」は、向日市の大正・明治の写真展と「西国街道道中小物展」です。、そのうち「西国街道道中小物展」について、当日1日だけの展示だったので、、見に行けなかったとの声を聞きました。小物は「古民具やまもと」のコレクションですので、ブログ上で「西国街道、道中小物展」をします。


1.西国街道の成立

 
 西国街道は、江戸時代の山陽道です。京都から西宮の間の道を「山崎道」(やまさきみち)と言いました。
 古代、律令時代、大化改新(645年)以後、地方の役所への道が整備され、国の主な道、五畿七道が定められました。
  五畿七道の五畿は和泉国、摂津国、大和国、山城国、河内国です。七道は東海道中路、東山道中路、北陸道小路、山陰道大路、山陽道大路、南海道小路、西海道小路、(後に北海道が定められ八道)
  その一つが、山陽道です。道の幅は江戸時代の街道よりもかなり広かったようです。
山陽道は、奈良時代、長岡京時代、平安時代を通して、九州太宰府への重要な国の道路でありました。

江戸時代に入り慶長9年(1604年)に日本橋を起点に東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道が定められ、西国街道は五街道の枝道、脇街道として整備されました。
西国街道は、京から大阪を経由しないで高槻、西宮を経由する下関までの街道、山陽道の呼称です。
 江戸時代までの道路の幅は、約1間前後(1.8メートルから2メートル)で、寺戸の深田川の橋は、少し広く約3メートルだったようです。現在の西国街道は、府道67号、国土軸としては国道171号が京都から西宮まで通じています。

江戸時代の旅は、「一生に一度伊勢を見たい」の願いから、老若男女を問わず伊勢参りに出かけました。
でも、本当の気持ちは、旅が目的で、伊勢参りに要した日数は、15日から30日と言われています。
江戸時代の日本の人口は1800万人くらいで、1年間で約42万人が伊勢参りをしたそうです。(享保3年1718年伊勢山田奉行が幕府に上申、『神崎宣武著「江戸の旅文化」から岩波新書』を参考)
東国(とうごく、関東)の人は、伊勢参りから大和、京、大阪などの寺社仏閣めぐり、西国(さいごく、岡山、広島、山陰、四国、九州方面)の人は、伊勢から名古屋、日光、江戸、善光寺など寺社仏閣めぐりをしました。
当時の人は、現代と同じように、旅の本「道中独案内図」などを事前に見て、旅行の情報を得ました。


2.道中小物 (町人の)(写真をクリックしますと大きくなります)

当時の旅は、できるだけ荷物を軽くし、二つの行李に携帯品を入れ、それを振り分けにしました。では何を携行(持ち物)したのでしょうか。(展示品の一部から)
  1.路銀(ろぎん、旅に必要なお金) 江戸時代のお金
 
2.丸薬(がんやく、くすり) 江戸時代

          3.道中弁当箱

         4.道中提灯

     5.ろうそく立て  江戸時代
   6.道中矢立て 江戸時代


 
   8.財布    江戸時代


            印鑑  江戸時代
 
10.方位磁石(大店が持っていた)江戸時代

 
 12.道中案内・地図 江戸時代
 
  
  14.煙草入れ  江戸時代

   16.道中手鏡(女性が使用) 江戸時代

 
   17.商売人の道中秤  江戸時代
 
  18.女性の化粧道具コウガイなど江戸時代
 
旅籠(はたご・今の旅館)に着いて、泊まる部屋は大部屋です。向日市の富永屋にも大部屋が残っています。
食事は、たいてい貧しいものでありましたが、伊勢参りで伊勢に泊まったときは
家で食べられないような豪華な食事が出ました。
下着は、自分で洗って泊まる部屋に紐を張り干しました。乾かないときは、旅を
しながら、二人で洗濯物を紐に掛け、干しながら歩きました。
  おみやげも大事でした。江戸時代は歩くので、お土産は小さなものとなり、寺や神社のお札や、大津絵、名所の木版画などを買い求めました。
  旅の途中で亡くなる人も多く、旅は大変でまさに今生の別れ気持でした。
西国には関所はありませんでしたが、江戸への街道は関所があり、「道中手形」が必要で、特に「女手形」を貰うのは大変だったそうです。
この展示を通して、町人の「旅の思い」を感じていただけたら幸いです。

2010年4月25日から5月2日に「向日市上植野町下川原の中小路家住宅」にて、五月人形展が開催されます。「この小物展」も再度整理して、展示します。詳しくは「中小路家」のホームページをご覧ください。(中小路家検索)
中小路家での道中小物展の準備をしています。お楽しみください。


              中小路家発行のチラシです
              クリックすると大きくなります。

追記:向日町東ノ段にありました、「健脾丸」の看板と薬袋も中小路家で展示します。




















マウスを左クリックすると写真が大きくなります。 

徒歩での推薦コース

阪急西向日で下車。西口に出ます。小さな駅ですが、出口に化粧品店があります。
化粧品店の横に幅1間位の道が西に延びています。
あたるところまで約300m、京都で言います「どんつき」です。どんつきの道が「西国街道」です。左に折れて、150mくらいで右にまわる道があります。50m先に、交差点が見え、向日町郵便局が道の向こうに見えます。
信号を(車に注意して)渡り、郵便局の前を左に行きます。4・500メートル先に阪急のガードが見えます。そのガードまで歩きます。
阪急ガードまで来ると、やや右にいき、小さな橋を渡ると、もう200メートルで、「中小路家住宅」です。江戸の西国街道沿いに旧家です。行かれる価値はあります。
「中小路家住宅」から、有名なぼたんの寺「乙訓寺」まで、25分くらい。いいコースです。そこからマイクロバスが有料ですが「霧島つつじ」の長岡天満宮手前まで行きます。(昨年は片道100円)
いいコースですね。花の好きな方は、是非来てください。
ちなみに「中小路家住宅」は5月2日までです。
                          (無断転載禁止)
                          (古民具やまもと記)
古民具やまもとにリンクします。

石村照子作陶展


 石村照子作陶展
 
今日26日準備が整いました。素晴らしい作品群です。ぜひご高覧下さい。
長岡京市在住の「石村照子」さんは、亀岡市篠町の地に穴窯を築窯され、全国の陶芸展で入選・入賞されています。その「焼き締め」の作品をご高覧いただければ幸いです。
  今回の作品は、炎の中から生まれた力強い作品が展示されます。ぜひご高覧ください。



              窯変花器H24×24cm



              窯変花器H22×34cm
  
平成21年11月28日(土)〜29日(日)
AM10:00〜PM5:00
会場:長岡京市長岡2丁目19番13号
  「古民具やまもと」
   作陶展は無料です。

会場は駐車場がありません。近くのスーパー等に駐車ください(買い物等が必要)。
会期中の電話は:075−954−3103
携帯は:090−9042−0487
会場の地図は、「古民具やまもと」のホームページにあります。
検索はグーグル・ヤフーで「古民具やまもと」を検索して貰えれば、ホームページがでます。

※石村照子さんのホームページもご覧ください。
 teruko45.blog92.fc2.com/

石村照子氏陶芸作品展

石村照子氏は、長岡京市で活躍されています。女流陶芸作家です。
石村氏の作品をブログでご案内をいたします。随時更新をいたしますので、お楽しみください。 





石村照子氏の陶歴   1996土と炎二人展  
               2003乙訓工芸作家協会会員
               2006作陶展ギャラリー古民具やまもと
               2007第41回女流陶芸公募展 入選
               2008第32回埼玉女流工芸展 入賞
               2008木織陶  画廊鬼  3人展
                            他公募展入選多数

石村さんの作品について
 作品は、登り窯で焼成されていて、窯の名は、「陶守窯」です。亀岡市と京都市の市域境界の国道9号沿いから、少し東に入ったところです。
 作品は、焼締(やきしめ)で、いろいろな土を試され、石村さん独特の作品となっています。
 女性の柔らかさではなく、大胆な造形です。焼成も作品が生きてくるようにと、納得されるまで焼成し、窯出しされます。

 
 


  ※お問い合わせは古民具やまもとまで