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大聖寺伊万里展の改訂版の発行

※平成20年に大聖寺伊万里展以後、大聖寺伊万里が人気が出て、たいていの店で大聖寺を扱うようになりました。いまだ古伊万里と大聖寺伊万里が区別されなく、古伊万里が大聖寺伊万里として販売されていることは残念です。
また、販売価格も大変上昇してきまし、江戸と表記されていることも多く見られます。
大聖寺伊万里は、明治初年からと思った方が良いと思います。江戸末と思われるのは、数点だけでした。
高いのが良いのではなく、大聖寺の雰囲気を出している商品を購入されてはと思います。

(古民具やまもと)




大聖寺伊万里展
(平成20年11月1日〜3日)
改訂版(2013.11)


大聖寺菊形小皿(最上手)所蔵:古民具やまもと


於:古民具やまもと
はじめに
 江戸時代もまさに終焉(しゅうえん)の時、加賀の国、大聖寺藩が伊万里の(佐賀の有田)を凌ぐ(しのぐ)製品を生産することを目的に、現在「大聖寺伊万里」と呼ばれて磁器を生産しました。生産と書きましたが、当然少量生産です。
なぜに加賀の小藩である大聖寺藩が「大聖寺伊万里」を生産したのでしょうか。
外様大名は、江戸幕府からは、改易、そして御取り潰しの危機がいつも念頭にあり、それを避けるために各藩は、物産を開発するべく藩の財政厳しい中で努力しました。
大聖寺藩は、磁器の生産の目的を献上品としました。
磁器を作るにあたり、吉田屋窯、木崎窯、宮本屋窯、松山窯の技術に新たに磁器色絵の技術を手に入れるため、金襴手、赤絵、染付の名工西山氏(後の永楽和全)一門を京都から招聘しました。そして山代の春日山の九谷陶器から、陶磁器の時代が到来しました。
大聖寺伊万里は、単に伊万里写ではなくて、明のデザインも研究し、大聖寺伊万里として消化しています。
藩の時代の生産品は永楽一門の手が入り、伊万里よりも繊細で、絢爛豪華(けんらんごうか)に完成され、献上手(けんじょうて)にふさわしいものとなっています。
藩の時代の磁器土は、明治期の京焼のように輝き、製品も轆轤(ろくろ)職人により、薄く仕上げられています。
素焼きの呉須の下絵は丁寧で、筆は滑らか、本焼き後の上絵(うわえ)も幕末の古伊万里よりも上手です。
 藩窯(はんようの)期間は僅かでしたが、その技法は民窯(みんよう)に受け継がれました。
私は、大聖寺伊万里ではなく、大聖寺色絵磁器、九谷色絵磁器と呼ぶ方がいいのではと思いますが。如何でしょうか。
ここ数年、地元関西をはじめ、東京、北陸などからご来店され、藩窯の上手を探される方が増えてきました。いま改めてお客様と一緒に大聖寺を研究しているところです。

あまり知られていない大聖寺の磁器を知っていただき、また磁器を制作した職人の息吹を感じていただきたいと思います。
学術的な展観ではありませんが、今後諸先輩のみなさまのご教示をいただければ幸いです。

末筆になりましたが、本展を開催するにあたり、ご出品いただくなど、多大なご協力を賜りました所蔵家の板東氏、畑中氏、兵庫K氏、大阪M氏に厚く御礼を申しあげます。
                   2008年11月
                   古民具やまもと

追伸:前回の説明は不十分であり、今回修正と新たに写真を加えました。大聖寺の磁器を楽しんでいただければ幸いです。     (2013.11店主)




大聖寺伊万里入門

堂々として現代にも通じる豪快な意匠で知られる古九谷は、17世紀中期に生産され、18世紀前期に突然姿を消しました。いまだ古九谷として、大人気があります。
しかし、近年、古九谷は加賀九谷で作られたのではなく、発掘により、佐賀の有田で作られたことが明らかになり、古九谷は「古伊万里」と呼ばれるようになりました。

幕末頃、加賀では、古九谷が100年前に加賀で作られたと考えられていて、それを再現しようとの動きが出て、大聖寺藩内の豪商豊田伝右衛門が古九谷を再現すべく、山代の春日山に築窯、「再興九谷」として生産を開始しました。
よく知られている吉田屋窯(1824〜59)として再興。赤絵の優品を世に送り出しました。松山窯(1848〜72)は、大聖寺藩が江沼郡松山村に築かせた窯で、藩窯(はんよう)として献上手を作りました。
このような大聖寺藩内の陶器生産の動きをみると、突然、大聖寺藩が磁器を生産したのではなく、このような背景があってはじめて磁器の生産を始めることができたのです。
大聖寺藩は1860年に宮本屋窯を藩窯とし、磁器を生産するために1865年、陶工西山氏を京都から招き(後の永楽和全)、山代の春日山に窯を築かせました。永楽和全は山代に約5年間滞在し、永楽手と呼ばれる大聖寺の磁器を生産しました。
しかし、明治になり、藩の財政も厳しくなり、大聖寺の磁器の生産は明治4年(1871)、民間の手に移りました。明治12年(1879)九谷陶芸会社が設立され、本格的に民窯(みんよう)としての生産が始まりました。
その会社も明治24年(1891)、解散となり、時期の生産も多くの個人会社に移っていきました。
大聖寺伊万里は、
第1期…慶応元年(1865)〜明治12年(1879)
第2期…明治12年(1879)〜明治24年(1891)
第3期…明治24年(1891)〜明治30年頃(1915)
第4期……明治末〜大正以降
に分けて評価をするならば、第1期は当然ながら、第2期までが収集のポイントと考えます。
第1期は絢爛豪華(けんらんごうか)で繊細な、金襴手、赤絵など永楽一門の力が入っているのがわかります。
第2期は、第1期の職人から、磁器土、釉、上絵などが受け継がれますが、少しずつ丁寧さがなくなり、磁器土も厚手となり、全体的に絢爛豪華を維持されますが、繊細さが失われてきます。
第3期は、磁器土、釉、呉須、上絵などの質はかなりおちてき、絢爛豪華を維持されますが、繊細さがます。大量生産になり、磁器土は滋賀県、岐阜県の産となったように思えます。
まだまだ、大聖寺の色絵を研究するには、民間のわたしでは限度があります。
今後、所蔵家のみなさんと楽しん




写1染錦獅子文窓絵七寸皿(明治第1期)
大聖寺の優品 寸法:径21×h3.5cm
所蔵:大阪板東氏


一部です
A5版、写真は80点です。61p